
─だいどー びとう【ダイドードリンコ株式会社】─
新潟のスキー場に行ったとしたら
ゆるキャラの レルヒさんに会いたい.
『それ もっと早くいってくださいよ~』と
喉の奥まで出かかりましたがキーボードで『それ もっと』まで打ちかけましたが
..断られる理由があたしにはよく分からなかったので
(この人はあたしの事を知らないんだから
それなら”私”というものを出していけばいいんじゃあないかな)
個人的なメールでそれを行うのは押しつけがましいかもしれない.
Web上で問題無い程度の内容で「よろしければ読んでね」と続けていってみよう.
気取っていたりテラうと頻繁にはUP出来ないし長く続けられない.
”ありのままの自分”っていうのは臆せずさらけ出す事なんで
自分自身の実像に迫ったアバターみたいな”あたし”を見せていけばいいんじゃあないかな. と 思ったんです.
現実のあたしはこんなに饒舌ではないし
黙ってコツコツと何かをしている人間であります.座って動かないからって居眠りばっかしてません.
こんな あたしの拙い文章でもパズルのように
(あーでこーで~どうしたら伝わるんだろう?)と 組み立てていると何だか楽しくなってきてー
後で読み返すと自分のって楽しくて. だんだん文が長くなってくるし.
まーいいけど.
新日曜美術館で【この人が語る"私の愛する画家"】再放送を自宅の録画しといたHDDで見た.
作家 髙村 薫氏がMarkus Rotkovich<マーカス・ロスコウイッツ> 後にアメリカ流にMark Rothko<マーク・ロスコ>1903-1970 と改名した抽象画家について語る番組内容だった.
氏は絵には幼い頃から造詣は有ったようだ.日曜画家である父親の側で画材で遊び色んな話を聞いていたかもしれない.
そこに在る物を平面に描く.「絵っていったらそういうもんだろう」という一般的な感覚がロスコの絵と出会う.
己の中に【抽象画とはなんなんだ?】という疑問が沸き上がる───
───自分の描いた抽象絵画をいちいち「これはこうだから」と 説明する馬鹿な画家は居ないと思う.
見る側の感性に任せるものだし だから見る側もそれなりの知識が要る.
それにしてもロスコは難解中の極めて難解な抽象画だ.
そして究極の抽象画家ですよね.
目の前に作品があったら(あたし どーしたらいいの?)って思うもん.
もー”解ろう” それはしない方がいいんではないか?と 思うもん.
”作品と一体化する”それしか無さそうな気がする.
抽象画の展示会に行ったら”肌に合った一枚を探す” それしかあたしには出来そうにないもん.
その一枚を見つけた時に目茶目茶な心の開放感があるような気がする.
あたしとしては《カッチリ・クッキリ》は写真が担ってるので
現在の絵画の自己表現は抽象画がいいんじゃあないだろうか.
と 今はそう思っているよ.
絵画における《カッチリ・クッキリ》は単に
『自分はこれだけ描けますよ』という技術力を見せているだけのように思えるからだ.
技術力はもちろん必要だよ.
でも そこからもう一歩踏み込んだ方がいいんじゃあないかな.
「なんだこりゃ.自分には分からん」と 言う人と
「凄い心に染み込んでくるよ」と 言う人が居て
(これで私はいいの)という信念や確信みたいな物を抱いて続けていくのね.
しかし あたしとしては風景は《カッチリ・クッキリ》描きたい.
この考え方の矛盾をどうしたらいいか?というのは
おぼろげながらに答えを見つけてはいるけれど
”自分の心情に合致した景色を歩いて見つけるしかない”
という 答えなの.
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